トップ対談
太田 雄貴氏×䔥 敬如
変革の時代だからこそ、改革が求められている。
フェンシングで日本人初のメダリストとなった太田雄貴氏がデジタルフォルンのブランドアンバサダーに就任した。日本フェンシング協会会長として旧来の常識に囚われない改革を進める太田氏と、デジタルフォルンのビジネスマインドに共通するものとは何か。プライベートでも親交の深い䔥敬如と大いに語ってもらった。
※文中に記載の組織名・肩書・取材内容などは、すべて2019年2月時点(インタビュー時点)のものです。
スポーツ協会改革と企業改革の共通点
太田氏:
䔥さんとは共通の知人の古希のパーティーでお会いしたのが最初でした。䔥さんはいきなり「君はどんな仕事しているの」と僕に尋ね、奥様に「なんて失礼なことを」とたしなめられていました。それからはプライベートでも食事するようになって……。たくさん人を紹介いただいたり、アドバイスをいただいたりとお世話になりっぱなしです。
䔥:
太田氏:
僕は䔥さんの視野の広さや分析力にいつも驚かされています。たとえば僕は原理原則を大切にするというか、当たり前のことが当たり前でないという状況がすごく気持ち悪い。なぜみんなそれに気づかないんだろうって。そんなとき䔥さんに質問すると、たいてい答えてくれるでしょう。これはこうで、こんな理由だね、とか。すると凄く腑に落ちる。そんな話をしているうちに、やっていることは企業運営も協会運営も同じですねという話になり、昨年6月、僕の方から䔥さんにフェンシング協会の理事をお願いしました。2020年東京オリンピックに向けて、協会改革に䔥さんの力を貸してもらいたいと思ったからです。
䔥:
太田氏:
䔥:
正反対の道のり
太田氏:
ところで䔥さんはどんな学生時代を過ごしてきたんですか?
䔥:
太田氏:
䔥:
昔は良かったんですよ。確か4年生から大丈夫だった。でも3年生なので最初は親戚の店で丼を洗うアルバイトから始めて、ニンニク剥いたり、5年生になるとレジの後ろで袋詰めしたりとか。それから生鮮食料品を市場、問屋で仕入れたり、ガラや野菜をお店に届けたり。学生時代は音楽スタジオの企画運営なんかにも手を出しました。お金を稼ぐのが楽しかったんですね。我慢せず、やりたいことはすべてやった。そりゃ怒られましたよ。あっちこっちいろいろ手を出さずひとつのことに集中しろって。今でもそうですけどね。
太田氏:
䔥:
というより、高校時代、友人に「パイロットをめざすから一緒に航空学校を受けないか」と言われ、「それもおもしろそうだな」と誘いに乗ったのです。そうしたら私だけ受かってしまった。それで入学してパイロットの訓練を受けました。軽率とも言える選択ではありましたが、向いてはいたようです。2年10カ月の在学中、座学では毎日のように試験があり、実技では600時間の操縦訓練がありましたが、どちらも割に得意で成績は悪くなかったと思いますよ。こうしてパイロットの資格は得て、航空会社の入社に向けて準備をしていましたが、当時は国際線の便も少なく、航空会社の採用枠が事実上ほとんど無い状況でしたので、意中の会社への入社は時間がかかる状況でした。しかしパイロットの訓練は後々の企業経営に非常に役立ちました。
太田氏:
䔥:
太田氏:
䔥:
太田氏:
人間には好き嫌いとは別に向き不向きがあると思います。䔥さんはそのときITという向いている道を発見したのですね。
䔥:
太田氏:
僕はまるで正反対。オリンピックで最初にメダル取るために、やりたいことを我慢して生きてきました。䔥さんのように目の前のことに精一杯打ち込んで生きた人は、振り返るとそれらの点が一本の線になっているのだと思いますが、目標が明確だとすべきことは実にシンプルで、どれだけ早く走り切るかなんです。オリンピックって悲しいことに4年に1度ですから、そうすると自分のベストをそこに持っていくしかない。自分で握れる運命と握れない運命があるとすれば、時間軸は握れない。なら、握れる運命で勝負するしかない。22歳でオリンピックを迎えることはわかっていたので、アテネで一度舞台を経験して北京で勝負。そう考えて準備しました。本当に成し遂げたいものがある以上、人並みのキャンパスライフなんか送れないぞと自分に言い聞かせていました。
䔥:
太田氏:
䔥:
太田氏:
䔥:
太田氏:
だってメダルをとるってすごい変化なんです。15分前まで誰も自分のことを知らないのに、メダルを取った瞬間1億人が認知するんです。そんなことスポーツでしかあり得ないでしょう。IPOの難易度も高いけど、去年上場した会社の名前全部言えるかって、経済界の人でも言えないですよ。でもオリンピックでメダル取ると、一夜にして有名人になってしまう。これは相当特殊なことなんです。
重なる改革の姿勢
䔥:
太田氏:
銀メダルがなければ今はない。だからターニングポイントというより、そこがスタ-トラインかな。䔥さんはターニングポイントになった出来事はありますか?
䔥:
毎日がターニングポイントかなあ。でもあえて挙げれば中国で事業を立ち上げた時と撤退した時。社長になった時の3つでしょうね。中国事業の立ち上げを例に上げますと、1987年に北京に日本の大手IT企業と一緒にソフトウェア会社を設立しました。これは世界で初めて、独資(外国企業の出資100%で設立した中国の会社)が認められた企業です。私は日本と中国を往復しながら社長を務めました。単にソフトの仕事だけでなく、中国の要人と日本企業を引き合わせるなど、人の交流も随分お手伝いしました。
太田氏:
䔥:
私は華僑3世ですが、日本で生まれ育ち、中国語はできませんでしたから、最初は通訳を付けて仕事をしていました。しかし、中国人の仕事相手に「良いものであれば、日本製であろうと、他の外国製であろうと、どんどん輸入して学ばなければ発展できませんよ」と、同じことを繰り返し語る内に、中国語の方もできるようになっていきました。
太田氏:
䔥:
私はね、死ぬ5秒前に、やあ生きた生きた、やるべきことはすべてやったと思って死ぬことが目標なんです。その時周りに何人いるかわからないけど、誰かに「よくやったよ」と手を握られて死んでいきたい。そういう意識をずーっと持っています。だからすべてが道の途中。
太田氏:
人生の最後の判定って、実は自分にとても厳しい。人生の途中にオリンピックという目標があればそこに向けて突っ走れるけれど、蕭さんは人生の限り、手を抜かず走り続けるわけでしょう。するとあと10年後に見ると、さっきの3つも大きなターニングポイントじゃなくなっているかもしれない?
䔥:
太田氏:
䔥:
太田氏:
䔥:
太田氏:
䔥:
そういう太田さんの姿勢こそ、今回ブランドアンバサダーをお願いした理由です。改革の時代に明確な目標を抱いて挑戦する。これまでにない価値をつくりあげて社会にもインパクトを与えていく。それはデジタルフォルンがめざすものとぴったり重なります。太田さんはメダルを狙い、チャレンジを重ねて、結果を出した本物のプロフェッショナル。そして私たちもお客さまを勝たせるプロフェッショナルであり続けたい。太田さんのフェンシング協会改革の姿勢を、ぜひ当社の社内に刺激にしたいと思っています。
太田氏:
僕の活動を、デジタルフォルンがこれからめざす革新的、チャレンジングな企業姿勢と重ねて見てもらえるなら、これほど嬉しいことはありません。僕もみなさんに負けないよう、これまでの枠に囚われない新しい変革に挑戦していきたいと思います。これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。
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